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不妊治療・妊活のクリニック探し・情報収集ならあかほし 体験談 子どもを産めない体、夫婦二人で生きていく決断、夫と死別。“ひとりになった私”を支えているものとは【子どものいない女性の生き方】 2ページ目(3ページ中)

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2024/07/14 公開

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30代後半で告げられた「妊娠できる子宮ではない」

英語教室で仕事をしていた30代後半の頃、子宮筋腫で不正出血が続いていたので、病院を受診しました。そこで先生から「子宮の状態が悪く、妊娠できる子宮ではない。年も年だし、もう妊娠は無理なのでは」と言われました。

できたらいつかは子どもを産みたいと漠然と思っていたので、すごくショックを受けました。

その病院から出て、どうやって行ったのか記憶がないのですが、気がついたら実家にいました。

唯一覚えているのは、実家に帰る途中に公園のベンチに座っていたこと。公園で遊ぶ子どもたちの姿を見て、この先、私は何十年生きても子どもを持つことができないんだと、ぼんやり考えていたことです。

実家に着き、母に病院で言われたことを話したら、子どもを産めない女なんていらないと、もし夫の実家から突き返されたら、実家に戻ってもいいと言われました。

家に帰り、そのことを夫に話したときに初めて泣きました。

「子どもはいいから、実家に戻るなんてことしないで。僕から離れないでほしい。別れる気はない。子どもはいなくていいから」と夫が言ってくれて、子どものことをあきらめました。

ところがあとから、その病院の診断は誤診だったと知りました。別の病院で子宮を診てもらったら、そんなことはないと言われたのです。そのとき39歳でしたが、夫婦で子どもはあきらめたし、年も年だったので、子どもはもういいかとなってしまいました。

新たな仕事と家族のサポートに奔走

体調のこともあり、英語教室は辞めて新たな仕事を始めました。それが現在のセルフ・カウンセリング学会の講師です。

なぜカウンセリングの勉強を始めたのか。当時は気づいていませんでしたが、根底には家族や妹のことが影響していたと思います。2つ下で双子の妹は二人とも精神的な病を患っていたのですが、一人は結婚して子どもをもうけました。

妹が妊娠したとき、病院の先生から中絶することをすすめられました。子育ては健常者であっても大変なことで、ましてや病気で薬を飲んでいたので、出産はリスクが高いと判断されたのでしょう。

妹がかわいそうに思えて、別の病院で相談したら「そうなるとは限らない」と言われました。悩んだ末、妹は産むことにしました。心配で心配で私も体調をくずしたほどですが、無事に健康な男の子が生まれました。

ただ、精神的な病を抱える妹は、買い物などに行くことはできても子どもの学校のことまではできない。かわりに父兄会に参加したり、手続きをしたり、甥の学校関係のことは私がやっていました。

母親は妹たちが病気を発症したこともあって、精神的にパニックぎみでした。家族のことでは私が頼りというか、しっかりせざるをえなかった。そんな中、自分の子どものことを真剣に考えるゆとりはなかったです。

次のページ>> それは突然訪れた。泣いて泣いて泣きまくって…

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大人世代のライフスタイルからマーケティングまで、時流やトレンドをとらえた独自の視点で情報を発信。近年は子どものいない女性を応援する「マダネ プロジェクト」を主宰。自分らしく自由で軽やかに過ごすライフスタイルを理想に掲げ、新たな価値観や生き方を提唱。これからの大人スタイルを追求している。著書に『商品PRのやり方が面白いほどわかる本』(中経出版)、『誰も教えてくれなかった 子どものいない人生の歩き方』(主婦の友社)がある。マダネ プロジェクト「つながるサロン」(子どものいない女性限定) GoodMorning by CAMPFIRE (https://community.camp-fire.jp/projects/view/446996)
マダネ プロジェクト https://www.madane.jp/

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